佐山みはるのブログ

佐山みはるの“余生を楽しむ”ためのブログです。

どれだけ得られるかでなく、どれだけ与えられるかだ

宇宙に生きる小さな私
 
 
私の中のオッサン的な存在が言う。

「どれだけ得られるかではなく、どれだけ世界に与えられるかだ」

で、私は与えられる人になれるだろうか?と
自問自答する毎日を過ごしています。



坂爪圭吾さんのブログで見たハワイ島の大きな木(バニヤンツリーかな?)が
とてもとても美しく、うっとり眺めていました。

ふと、ああ、これも“世界に与える”ってことなのだなと思ったのです。


木はその場を動かないけれど、その存在を通して与えている。
 
 
写真に撮られることもない、目立たない普通の木も私たちに与えてくれている。  
 


私は樹木エンパスな部分もあるので、
宇宙語で木に話しかけたり(←怪しい人あせる
木の下にいるのがとても好きです。

あるとき、といっても、かなり昔のことですが、
冬に葉を落とす木よりも、1年中緑を絶やさない常緑樹のほうが
辛いんじゃないかと思ってテレパシーを送ってみたことがあります。
(その頃はまだ宇宙語を話していなかったの)

すると彼らは、私たちの務めですから。でも、気にしてくれてありがとう。
というような返事をしてくれました。
 
 
 
今になってわかる。彼らの務めは“与える”ことだったんです。
 


私たちはそれに気づかないことがほとんど。

もちろん彼らのほうも気づいて欲しくてやっているわけじゃない。

与えることが彼らの使命だから。



木の存在をいちいち考える暇がないほど、私たちは忙しい。

「どれだけ得られるか」に忙しい。

give me 、give me 、give me・・・・



ある意味、しょうがないのです。
たくさん得られる人が成功者と言われる、この世界では。
 
 
成功者になるつもりがなくても、生きていれば、
毎月の支払いはやってくるしね。


木を見ても腹はふくれない、と皆が思っている。
木を大事にしても変わりに電気代を払ってくれるわけじゃない(笑)

それでも、木は与えているんです。



まあ、こうして自然が与えてくれているものに、
気づかないままでも、日々生かされているのですが。

都会にいると自然が遠くて、なかなか満たされないな・・・

まず自分を満たさないと与えることは難しい。

与えたつもりが奪う人になっていることもある。

give me 、give me 、give me・・・・
 
 
 
 
以前、ハワイ(オアフ島)に行ったとき、綺麗な色の鳥や花を見て
聖書の『山上の垂訓』の一部を思い出していました。

空の鳥を見なさい。種蒔きも、刈り入れもせず、また倉に納めることもしない。
それなのに、あなた方の天の父はこれを養ってくださる。
あなた方は鳥よりも遥かに優れているではないか。



どうして人間はこのように生きられないのか。。。
これはずっと私の中で課題になっていますね。
 
 

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銀座の歩道に植えられた埃だらけの小さな木にも、こんな新しい芽が。



 

【マタイによる福音】

イエスは言われた。
「あなた方に言っておく。命のために何を食べ、何を飲もうか、
また体のために何を着ようかと思い煩ってはならない。
命は食べ物にまさり、体は着る物に勝っているではないか。
空の鳥を見なさい。種蒔きも、刈り入れもせず、また倉に納めることもしない。
それなのに、あなた方の天の父はこれを養ってくださる。
あなた方は鳥よりも遥かに優れているではないか。
あなた方の誰かが思い煩ったからといって、一刻でも寿命を延ばすことができるだろうか。
なぜ、着る物のことで思い煩うのか。
野のゆりがどのように育つか考えてみなさい。
ほねおりも、紡ぎもしない。
あなた方に言っておく。
栄華を極めたソロモンでさ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなた方に対してはなおさらのことではないか」